牧野さんは貧乏だつたが、使ひ切れない分量の収入があるならとにかく、
純文学の最大の流行作家程度の収入なら、恐らく同じ程度に貧乏だつたに違ひない。
明治末期の自然派の文学以来、戯作性といふものが通俗なるもの、純粋ならざるものとして、
純文学の埒外へ捨て去られた。
おまけに読物が読物としてゞなしに、文学として、
純文学として通用してゐたのである。
彼らは、
純文学のアプレゲールのように、理窟倒れして、一現代と遊離するようなことがない。
純文学というものの稼ぎは中学生の駄文の飜訳に遠く及ばないのである。
純文学は世間を相手とせず、大衆文学は読者本位に作られるものだといふぐらゐの区別は知つてゐる。
僕は、
純文学が行き詰つたなどとは、考へてゐないものの一人であることをここに特記する。
いはゆる、
純文学の宿命がそこに繋りをもつといふ意味さへ、今やうやく、一部の人々は気がつきだしたのである。
彼は「史論」と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻りに
純文学の領地を襲はんとす。
映画を今の
純文学のように、あるいはまた能楽のようにして民衆との縁を断ち切つていいなら、どんな高い仕事でもできる。