しかし、実際はどこへ行こうとも、またどこへ行かずとも、花はいくらでも
見られるのであった。
冒険をやつて見ようか、堅実にやつて見ようかと、いろ/\自分の思ひ通りやつて
見られる。
私はそのころ、年若く
見られるのを恥かしがっていたものだから、一高の制服などを着て旅に出るのはいやであった。
たまに看守や観覧人に遇っても、じろじろ顔を
見られるのはほんの数秒の間だけである。
こうした氏の表現は、氏の作品の随所に
見られるが、試みに「好人物の夫婦」の書出しの数行を抜いて見よう。
まずは一種の気ちがいか、絵にかいてある仙人のたぐいかとも
見られるので、彼の通る路々の人はいずれも眼をみはって見送っていた。
ほかの者に
見られるぶんにゃかまわねえが、あいつに見られちゃ、これからさきおいらをバカにするからね」
しかるに三民主義の中國は、蒋介石氏の獨裁と非難されるが斷じてしからず、蒋氏は常に反省的であり、衰えたる國民黨の一角に依然美事なる統制えの歩みが
見られる。
俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が
見られるようになったのだ。
私はつんつるてんの綿入に紺足袋穿という体裁で、奥様に
見られるのが何より気恥しゅう御座ました。