自伝とか私小説といえば、事実を主体にしたものと思うことしか知らぬから、そういう批
評が出てくるのだが、あのWは、どうしても仮名でなければならないのである。
長文の手紙に何が書いてあるかというと、私の作品(主として堕落論)の批
評が主であるが、中には私の作品の半数ぐらい読んでいて、一々槍玉にあげているのもある。
極く贔屓目に見ても、三代相恩の旗本八万騎のだらしのないのに反して、三多摩の土豪出身でありながら、幕府の為に死力を竭したのは偉い、と云ふ
評がせい/″\である。
独立内部に如何なる特殊的事情が潜んでゐやうと、大衆はそんな事情は問題ではない、具体的には『面白くもない展覧会』であつたといふ一般的批
評が決定的なものである。
藤島取締の相撲
評は毎年読んでゐるのだが、今回のは対象が対象だし、ほかに多くの批
評が出たため、比較するのに便利でもあつたが、実に私は感服した。
勿論月
評家の批
評が、一人の作家の浮沈を決定するとは思はないが、公平を期する上から云へば、きまぐれに、若い作家などの作品を云々することは慎むべきだ。
その真似をして林家正藏という怪談師が、今戸に心中のあった時に『たった今戸心中噺』と標題を置き拵えた怪談が大して
評が好かったという事でござります。
そして、こういう連中の批
評が実に端的に核心を射抜いていて驚かされることがしばしばである。
彼は多少キじるしだとの
評がホールの仲間にあるけれども、おそらくホールの御連中にキ的傾向を持っていないかたはあるまいと思われる。