と、今めかしく
註を入れたは、年紀の少い、学生も交ったためで。
勿論何のためだったかは、
註を入れるにも及びますまい。
「この下っ引というのは、今でいう諜者のようなものです」と半七老人はここで
註を入れてくれた。
今日になつても、例へば岩波文庫版の
註を見ると、「夜半に鐘声あるか無きかに就いて古来論あり。
目の下二尺の鯛が釣れようと、三年の鱸が食いつこうと、あるいはまた間違って糸蚯蚓ほどの鮠(
註に曰く、ハエをハヤというは俗称なり。
南鯱は雌でその高さ八尺三寸五分と
註され、北鯱は雄で、稍大きく、高さ八尺五寸あった。
されど石敢当に関する説は姓源珠※に出づるのみにあらず、顔師古が急就章(史游)の
註にも、「衛有石※鄭有石癸斉有石之紛如其後亦以命族石敢当」とあり。
尤もこの
註には、多少妥当を欠いたものもないではない。
此本からでも氣付いたものか、徳川時代に歴史と二字を連ねたものに、元禄年間刊行の巨勢彦仙の本朝歴史評
註があり、享保年間編成の松崎祐之の歴史徴がある。