そして我らは、諸
賢と共に本誌によって、その「とにもかくにも」の「中程」の経歴を、調査してみたいと思う。
私は私の愚を嗤笑すべき
賢達の士のあるのを心得てゐる。
面白ずくに三馬や京伝や其磧や西鶴を偉人のように持上げても、内心ではこの輩が堂々たる国学または儒林の先
賢と肩を列べる資格があるとは少しも思っていなかった。
北条早雲が、横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆をとったやり方などよりは、よっぽど、理窟があるが、結局陶晴
賢との勢力戦であったのであろう。
晴
賢が、義隆を殺した以後二三年間は無事に交際していたのだが、元就が攻略した尼子方の備後国江田の旗返城を陶が毛利に預けないで、江良丹後守に預けた。
それだから、ソロドフニコフの為めには、先方の
賢不肖なんぞは分かる筈がないのに、只なんとなく馬鹿で、時代後れな奴だらうと思つてゐる。
「その父
賢にして、その子の愚なるものは稀しからず、その母
賢にして、その子の愚なる者にいたりては、けだし古来稀なり」
しかしさうした具合に
賢かつた大學の博士達は天津教側から首音の濁つた陰口言はれてゐるから、私は又どんな怨を受けるか測知り難い。
為吉はまだ八つでしたが、非常に頭のよい
賢こい子で、何かにつけて大人のような考を持っていました。