善と悪との感じは、美醜の感じよりも遥かに非感覚的な価値の意識であるから、その存在は茫として見えるがもつと直接に人間の魂に固存してゐる。
大学教授某博士は倫理学上の見地から、蟹の猿を殺したのは復讐の意志に出たものである、復讐は
善と称し難いと云った。
これらの事実を綜合してかんがえると、人間の英
善はこの夏の末頃から消えてなくなって、狐の英
善が住職になり代っていたらしい。
善の道に立ち入りたらん人は、御教にこもる不可思議の甘味を覚ゆべし。
善をしようと云ふ気にもならないと同時に、悪を行はうと云ふ気にもならずにしまふ。
班超は依然三十六人の小勢にて、※
善の西なる于※(今の和※)王を屈服せしめ、その翌年(西暦七四)には、謀を設けて、頑強な疏勒(今の喀什※爾)王を擒にして居る。
自分もチヨークで畫くなど思ひもつかんことであるから、畫の
善惡は兔も角、先づ此一事で自分は驚いてしまつた。
侍「亭主や、其処の黒糸だか紺糸だか知れんが、あの黒い色の刀柄に南蛮鉄の鍔が附いた刀は誠に
善さそうな品だな、ちょっとお見せ」
生命と認識と恋と
善とに驚き、求め悩むのは青春の特質でなくてはならぬ。