そこには必ず
倫理自体の自己破壊が行はれてをり、現実に対する反逆が精神の基調をなしてゐるからである。
我々の
倫理の歴史は、精神が肉体に就て考へてきたのだが、肉体自体もまた考へ、語りうること、さういふ立場がなければならぬことを、人々は忘れてゐた。
文学が閑余の遊戯として見られていたばかりでなく、
倫理も哲学も学者という小団体の書斎に於ける遊戯であった。
憲法に拠る自由信教を超越する為に、
倫理内容を故意に増して来た傾きがある。
普通、
倫理とか修身とかいうものがつまらないのは、先生がそういう話をする、それを聞きっぱなしにするからつまらないのです。
もつとも、そこには
倫理の理解といふものがあります。
之を以て孰れの邦国にも孰れの社会にも必らず何等かの
倫理あるなり。
すべての
倫理道徳は必らず、多少、人間の生命に関係ある者なり。
倫理書をのぞいても、其當時々々の社會の秩序を破る思惟を誘ふ部分と謂つた處は、皆それ/″\あるのである。
というのは、
倫理、宗教と合して、天人に関するわれわれのいっさいの見解を表わしているものであるから。