早速ありあはせの
辞書を調べたが、ラムネー氏は現れない。
私は
辞書をしらべたわけではないのだが、しかし、恋と愛の二語に歴史的な、区別され限定された意味、ニュアンスが明確に規定されているようには思われぬ。
辞書をひかずに、分らぬところは、ぬかして訳してしまふから早いのは当りまへ、明快流麗、葛巻はさうとは知らなかつた。
自分で飜訳しておいて腑に落ちないとは失礼な話であるが、元々学がないところへ
辞書をテイネイにひくのがキライという不精な天性があって、ママならないのである。
この二つが日本に
辞書のできる理由であり、事実この二つの方面の結果が出てきている。
日本の唯今までの
辞書や註釈書が、どの時代に通じても数個の意義に共通し、其用語例の間を浮動して居るもの、と見て居るやり口に酷似して居る。
辞書にもさういふ怪しげなものにまで使はれてゐる文化の意味は出てゐません。
彼は倉皇と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった
辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる
辞書にも決して書いてはないのである。