つまり中世乱
離の頃は戦争と博奕といふものが密接な関係を有して居たのが、末代太平の世には山の祭と云ふものと博奕とが大きな関係を持つやうになつた。
私たち二人は、その晩、長野の町の一大構の旅館の奥の、母屋から板廊下を遠く隔てた
離座敷らしい十畳の広間に泊った。
客は、なまじ自分の他に、
離室に老人夫婦ばかりと聞いただけに、廊下でいきなり、女の顔の白鷺に擦違ったように吃驚した。
しかしまた一方には、五代乱
離といえどもみな国史ありといわれていまして、皆それぞれの国史を残している位ですから、文章まったく地に墜ちたというのではありません。
月東山を
離るといふの句は詞客の套語となれりといへども、実は水に近き楼台の先づ清輝を看るを得るの多趣なるに如かず。
しかしとにかく二人ははたで見る目も無惨な哀別
離苦のかぎりをつくし、かたく再会を約して別れました。
支那の酔人は「
離騒」を読んで興ずると云ふが、「
離騒」にあらずとも詩篇は概ね酔後の好侶伴である。
また貧舎写興と題する詩(詩稿巻六十八)に云ふ、粲粲新霜縞瓦溝、
離離寒菜入盤羞、贅童擁※掃枯葉、瞶婢挑灯縫破裘と。
城下の者にて幸助を引取り、ゆくゆくは商人に仕立てやらんといいいでしがありしも、可愛き妻には死別れ、さらに独子と
離るるは忍びがたしとて辞しぬ。