往年同須藤南翠、訪依田学海君※上村荘、酒間、君賦一律見贈、今巳四年矣、昨雨窓無聊偶念及之、即和
韻一律、録以供一笑之資云、
人はこれらの終止段から出たらしい語をば悉くあの
韻がお(即ちう)にうつゝた音
韻の転訛であるといふけれども、それでは何やら安心のならぬ所があるやうにおもふ。
そして當然僕の生涯の絃の上には、倦怠と懶惰が執ねくもその灰色の手をおいて、無
韻の
韻を奏でてゐるのである。
われは世の俗
韻俗調の詩人が徒らに天地の美を玩弄するを悪むこと甚だし。
而して其由来する所は、浄瑠璃の朗誦法に帰すべく、且は又た我邦言語の母
韻に終る事情にも帰すべしと雖、職として整合の、余りに厳格なるに因せずとせんや。
左ればお夏が愛情の自からに霊
韻を含む様になるも自然の結果にて、作者の用意浅しと云ふ可からず。
然れども造化の秘蔵なる名山名水は往々にして、
韻高からず調備はらざる文士の為めに其粋美を失却する事あるを免かれず。
かのキイツの鶯の賦をおもはしむる「郭公の賦」以下前に数へたる
韻ひある句を摘まむはやすけれど聯珠の絲を断たむは口惜しかるべし。