実は、詞章自身が、口伝えの長い間に、そういう
類型式な理会を加えてきていたのである。
事件の推移は飽くまでも論理的で、人物の性格は余りに
類型的である。
つまり
類型的な人物はただ「感性」の助けによつて、それを「如何に」表出するかの問題を解決すればよかつたのである。
結局、彼等は、
類型にしか興味を寄せてゐないことがわかつた。
つまり、主題の普遍性、人物の
類型ならざる典型、よく調べられた白などを二三の中心的な俳優が、殆ど完璧な「現代的演技」をもつて見物の前へ押し出してゐた。
しかしながら、時として、象徴的手法の失敗が、人物の性格を
類型に陥れる場合がないでもない。
唯、玉をさういふ風に歌ふのには別の原因があつて、その上に、
類型を襲うて歌ふ習慣が出て来たのです。
それと同じに在来の芝居の台詞にしても、その「抑揚」から「緩急」に至るまで
類型的な標準によつて、人物個々の心理的ニュアンスを無視してゐる。
歌聖西行法師たるもの、こんなつまらない
類型的の歌を、なんで臆面も無く読むものか。