授かりものと言ふ点では一つで、此方が、日本の神子
養育譚には普通の姿で、申し子の原型である。
恐らく多遅比の名称は、若皇子を御
養育した多遅比氏(丹比氏)の名称であつて、つまり、丹比氏が
養育し奉つたから、若皇子の御名を多遅比と称へたのであらう。
しかもその子を育てないと、その母もかならず死ぬので、みな恐れて
養育することにしているが、成長の後は別に普通の人と変らない。
一九一二(明治四十五)年 この頃、秋田県に住む伯母のもとに一〜二年間引き取られ、
養育を受ける。
天子の御子が幾人もおいでになる時は、古代には、各の豪族が、御子を引き取って
養育し、自分達の方で育った方を次の位にお即けしようとして、争いを起す事さえあった。
養育母は却つてそれを喜びながら、後で雑巾がけをして呉れた。
今までのとうさんの生活が変則で、多少不自然であることは自分でも知っていましたが、おまえたち兄妹を
養育するためには、これもやむをえないことでした。
若し今日の社会制度に若干の変化を生じたる後、あらゆる童子の
養育は社会の責任になり了らん乎、この傾向の今日よりも一層増加するは言ふを待たず。
恋愛の陶酔から入って、それからさめて、甘い世界から、親としてのまじめな
養育、教育のつとめに移って行く。