それから地租は
たしか十五年間は免ぜられてゐたと思ひます。
たしかギャーッと耳の底に響いたのだが、頭の上に、ひどい悲鳴を聞きつけた。
「あの方のお勤めになりましたのは、元禄十年——
たしか十年でしたな」
それからだんだんに広まって、
たしか嘉永三年頃だと覚えていますが、絵草紙屋の店に植疱瘡の錦絵が出ました。
その人形をこしらえたのは、
たしか植梅という植木屋であったと思います。
あれは
たしか文化四年四月の申渡しとおぼえていますが、町奉行所の申渡書では品川宿旅籠屋安右衛門抱とありますから、品川の貸座敷の娼妓ですね。
あれは安政元年の六月十一日の出来事ですが、これは翌月の下旬、
たしか二十六七日頃のことと覚えています。
お椀は
たしか主人達だけ光琳の繪模樣のある大きな雜煮椀だつたと覺えて居る。