「らしい」といふ主体が作者の
主観に間違はれる心配は、その前後の語法に多少の心を用ひればまづ絶対にないとみていい。
記録文学とよばれるものでも、純粋に事実を記録したと思うのはまちがいで、
主観というものがすでに事実をゆがめているものだ。
「歯車」は、所謂「文学座」の色彩を十分に織り込み、しかも、建設的な
主観と明朗闊達な雰囲気とをもつて一貫した作品である。
殊に、「初々しき恋人」に見える稍※病的な
主観は、その「余りに地方的な」感情と共に拡大し、作品を頗る晦渋なものにしてゐる。
何によつてそれを感じるかといへば、聊か
主観に偏するきらひはあるが、私は敢て、周囲にそれを感じさせる二三の若い友人がゐると答へたい。
ただ、小説家は、あくまで芸術家としての
主観を透して人生の事相に興味を向け、小説家にして初めて感じ得る真理の閃きを捉へて、これを独特の表現に盛らうとする。
ファンテジイは、
主観の客観化であり、ファンテジストは「現実」を疑つてゐる。
前の場合に於て、人は画家から授けられた先入
主観によつて物をいつてゐるのだ。
快楽と実用とは、
主観に於ては美の要素なりと雖、客観に於ては美の結果なり、内部にありては、美を構成するものなりと雖、外部の現象に於ては美の成果なり。
カメラ・ポジション選定の過程においてもしも必然性を認めるとしたら、それは芸術家がその
主観において、「よし」と判断する悟性以外にはあり得ない。