三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い
佗しい旅であった。
長い年月、都会生活に慣れた私の眼には、心の底から寒々するほどの
佗しい村であつた。
疎開といへば
佗しい限りのものと思ひ、わるくすれば蚕室、物置を改造した所にもはいるつもりで居たのに、実に予想以外のことであつた。
その闘いは金谷宿
佗住居の段で、兵助が返り討ちに逢うところであるらしくみえた。
私どもの住んでゐる矢來の家の周圍は、有閑階級の人達ばかりで、夏場はみな海や山に暑さを避けて、私ども夫婦は、さながら野中の一軒屋に
佗び住むやうな思ひであつた。
島崎氏はその後淺間山の麓なる
佗しき町に居を移された。
「吉祥天女を思ひがけんとすれば、怯気づきて、くすしからんこそ
佗しかりぬべけれ。