都市の随所に簇立せる銅像の類は悉く低級虚偽の作品のみであつて、真の芸術に比する時は恰かもミケルアンヂエロの作物に対する土人の
偶像であるかの如き観がある。
日本の伝統が、主として
偶像的虚妄の信仰であることゝ同様に、外国文学の公式的な移入にも、同様な
偶像信仰がつきまとっているものだ。
今少し進んだ場合では、神々の姿を
偶像に作り、此を招代とする様になつた。
理想の境涯、
偶像となつた生活は、人よりも神に、神に近い「顕つ神」と言ふ譬喩表現が、次第に、事実其ものとして感ぜられて来る。
俳優であるが故に、民衆の
偶像であつてはならないのだ。
そして終に、肉体と精神とを挙げて犠牲にするだけの
偶像を何物にも見出し得ざる悲しみを感ぜずには居られないのである。
若し最大の多力者だつたとすれば、あのゲエテと云ふ男のやうに安んじて
偶像になつてゐたであらう。
だが、破られて了ふと思ふのは、實は我々の持つてゐた小
偶像が破壞せられるだけで、芭蕉の文學の眞實性は、決して亡びるものではない。