されば各御家庭は勿論、クラブ、ホテル、集会場、カフエ等々に御備附して、春の朝の
悦楽にも秋の夕の清娯にも、どれほど似附かはしいか知れませぬ。
注連飾りに囲まれた能舞台に坐つて、初春の朝の日を浴びながら「たう/\たらり」と謡ひ出す気持は何ともたとへようが無く、その
悦楽は経験した者のみが知るであらう。
こう言えば、諸君はこうした町が近代的生活と
悦楽との焦点になっていることを容易に想像するであろう。
自由に空想し、自由に想像し、自由に
悦楽し、自由に反抗せよ!
我等に、生甲斐を感じさせ、
悦楽と向上の念とを与え、力強く生活の一歩を進めるものであったなら、芸術として、詩として、それは絶対のものでなければならぬ。
「路旁生命水清流 天路行人喜暫留 百果奇花供
悦楽 吾儕幸得此埔遊」——大体こんなものと思へば好い。
個々特々の悲苦及び
悦楽、要するにこの大琴の一部分のみ。