しかしわたしはそれよりも先に、
戯曲と云わず小説と云わず、彼の観照に方向を与えた、ショオの影響を数え上げたい。
ヴイルドラツクの芸術は、殊にその『愛の書』と
戯曲とは、此の言葉のニユアンスを伝へてゐる。
戯曲といふものゝ本質をつかんでゐる点で、稀に見る劇的才能の所有者だ。
但し、この二つの部類は、ただそれだけで、何れが芸術的に、
戯曲として高級であるとか、或ひは、新しいものであるとか、そんなことは云へない。
つまり
戯曲と演劇との間に当然つけなければならない隔たりが会得されてゐなかつたのである。
例へば、十年前までに発表された新劇の
戯曲といふものを舞台にかける際、俳優たちは果して新しい演技といふものに基いて、その
戯曲を舞台化してゐたかどうか。
それと同時に、
戯曲は、
戯曲としての本質に関係なく、殆ど小説の一形式としてその存在を主張し得ることを意味してゐるのではないか。
眼に訴へる韻律と耳に映ずる姿態、これは、小説と
戯曲とを区別する根本の感覚である。
君達の
戯曲は——僕達の
戯曲と云へば、誰かゞ何んとか云ふだらう——全体、いつ舞台にかけられるんです。
小説といい、稗史といい、
戯曲といい、寓言というもの即ち是なり。