私が二十二三の頃であつたが、夏休みで帰省してゐるとき、海軍の水泳
教官のたしか岩田とかいふ人物が新潟佐渡間を泳ぐためにやつてきた。
それから、直接教へは受けなかつたが、内藤濯氏が幼年学校の
教官だつたのでいろいろ将来のことを相談した。
なんでも、今まではブリュッセル陸軍大学の砲兵科の
教官をしていたというので、フレロン要塞の参謀の任に当ったのである。
二十八日の月給日に堀川
教官殿と書いた西洋封筒を受け取るのにはかれこれ二週間も待たなければならぬ。
これはもう一人の物理の
教官、——長谷川と云う理学士の言葉だった。
そこで予は遺憾ながら、当局並びに同僚たる文武
教官各位の愛顧に反いて、とうとう大阪毎日新聞へ入社する事になつた。
——海軍機関学校の
教官となり、高浜先生と同じ鎌倉に住みたれば、ふと句作をして見る気になり、十句ばかり玉斧を乞ひし所、「ホトトギス」に二句御採用になる。
僕はそのために口を探し、同じ年の十二月に海軍機関学校の
教官になつた。