中仙道熊谷より荒川に沿い寄居を経て矢那瀬に至るの路を中仙道通りと呼び、この路と川越通りを
昔時は秩父へ入るの大路としたりと見ゆ。
ずツと
昔時芝の金杉橋の際へ黄金餅と云ふ餅屋が出来まして、一時大層流行たものださうでござります。
昔時シヽリーといふ島のダイオインシアスといふ国王がございました。
昔時はそれでも雁坂越と云って、たまにはその山を越して武蔵へ通った人もあるので、今でも怪しい地図に道路があるように書いてあるのもある。
われらは固より日に新にして、日に日にまた新ならんとしつつある今日の社会に於て、素朴なる
昔時の新聞記者たらんことを欲せず、またそれが許されないことを知る。
「江戸図説、府内備考」等によるに、「
昔時は矢の倉の運漕堀にして横山町に通じその状薬研に似たるを以つて薬研堀と称すと。
昔時は洪水毎に山上の良土を持ち来つて、両岸の田地を自然に肥したものが、俄に毒流を漲らして死地に化す。
此の躰を見て惆悵として去る能はず、熟視すれば乗者の衣は三紋の、あはれ
昔時を忍ぶ会津武士、脚は破衣を脱して露はるゝところ銃創を印し、眼は空しく開けども明を見ず。
山水もはた
昔時に異なりて、豪族の擅横をつらにくしとも思ずうなじを垂るゝは、流石に名山大川の威霊も半死せしやと覚て面白からず。