町外れから、曲り拗ねった路や、立木の暗い下を迂路ついて、与平
治茶屋まで来た。
すると、たとい写実派の川口でも、時には写実を離れて頭だけで描くこともあろうではないか、と金剛蜻
治が横槍を入れた。
治修はちょいと考えた後、念を押すように尋ね直した。
わたしが鬼界が島に渡ったのは、
治承三年五月の末、ある曇った午過ぎです。
尾張の
治黙寺に手習にやられたが、勿論手習なんぞ仕様ともしない。
微力其任に堪へずと雖も、当代の人目を聳動したる雄篇鉅作は問ふを待たず、
治く江湖に散佚せる万顆の零玉細珠を集め、一も遺漏無からんことを期せり。
猶、此儀は、弥左衛門殿直に見受けられ候趣にて、村方嘉右衛門殿、藤吾殿、
治兵衛殿等も、其場に居合されし由に候へば、千万実事たるに紛れ無かる可く候。
』また
治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。