ここは甲州の笛吹川の上流、東山梨の釜
和原という村で、戸数もいくらも無い淋しいところである。
「それで
和がりだ」と叫んで、自分の手を開けてみせたのは、「豆シャン」と綽名のある美少年園部壽一だった。
和成るや飛ぶが如くに馳せ上って、光秀の虚を山崎宝寺天王山に衝き、光秀をして三日天下のあわれを喫せしめた。
吉田は胸のなかがどうにかして
和らんで来るまでは否でも応でもいつも身体を鯱硬張らして夜昼を押し通していなければならなかった。
和の宮様御下向の時、名を賜はつたと云ふ石燈籠も、やはり年々に拡がり勝ちな山吹の中に立つてゐた。
たとへ宗教心のない人でも、かう云ふ平
和の俯瞰景を眺めたら、何かに祈りたいといふ氣を起すに相違ない。
班超は依然三十六人の小勢にて、※善の西なる于※(今の
和※)王を屈服せしめ、その翌年(西暦七四)には、謀を設けて、頑強な疏勒(今の喀什※爾)王を擒にして居る。
どうしたのかと思って、書斎の方へ行くと、入口の所に
和辻さんや何かが二、三人かたまっていた。
デンマークは
和を乞いました、しかして敗北の賠償としてドイツ、オーストリアの二国に南部最良の二州シュレスウィヒとホルスタインを割譲しました。