倖にも、其前年六月に、山籠りした世阿弥の弟子の禅竹は、ゆくりなくも命婦ら一部の、
漂浪の痕を辿るべき書き物(禅竹文正応仁記)を残して置いてくれた。
啻に謫流地の伊予と、元の地なる都との間における事件を述べるに止めずして、尊い女性が、思ひ人の後を追うて
漂浪する風に語りひろげる様にすらなつてゐる。
又食ふや食はずの貧乏の家で、父たる者は何処かへ
漂浪して終つて居るやうな場合の時、たゞ一人の淋しい生活をして居る婦人から生れたと致します。
紀州路へ落ちたという噂だけで、今はどこを
漂浪っているかわからない。
では「さまよえる猶太人」とは何かと云うと、これはイエス・クリストの呪を負って、最後の審判の来る日を待ちながら、永久に
漂浪を続けている猶太人の事である。
彼等は、この広い天地に、曾て、自分を虐遇したとはいえ、少年時代を其処に送った郷土程、懐かしいものを
漂浪の間に見出さなかった事である。
欧羅巴に
漂浪のみぎり、私は五六年の間、仏蘭西で百姓生活を営んで来た。