往年同須藤南翠、訪依田学海君※上村荘、酒間、君賦一律見贈、今巳四年矣、昨雨窓無聊偶念及之、即和韻一律、録以供一笑之
資云、
それから今一つ、この小作人と市場との間にたつ仲買といふのがその土地の作物を抵当にして恐ろしい利子にかけて所謂米塩の
資を貸すのであります。
随身は又、仕へてゐる王族・貴族によつて、
資人又は、帳内とも言うた。
酒井は、どうすることもできないで、自らそくばくの金を献上して、御内膳の
資に供えたという。
ぼつぼつ書きものをしてどうやら生活の
資を得られるやうになつてゐたからである。
もっとも些少の東西なれども、こたびの路用を
資くるのみ。
信雄は凡庸の
資であるが、信孝は、相当の人物である。
父好次の下に帰ったのが寛永十四年、年漸く十六であったが、英敏の
資に加うるに容
資典雅にして挙動処女の如くであった。
吾輩はあえて議員諸氏に向かいてこの編を草するにあらず、世の良民にして選挙権を有し読書講究の暇なき者のためいささか参考の
資に供せんと欲するのみ。
然れども子が斯道に心を潜むるの深き、静養の間更に名人競の内として木匠長二の伝を作り、自ら筆を採りて平易なる言文一致体に著述し、以て門弟子修業の
資と為さんとす。