一たい、おまえは私に似て情熱家肌の純情屋さんなのに、よくも、そこを矯め堪えて、現実に生きる歩調に
性情を鍛え直そうとした。
フランス及びフランス人をよく知る僕には——もちろんフランス人にも日本人として僕が同感し兼ねる
性情も多分にありますが——それが実に明白に理解されます。
この二つの「主義」は、現代の教育に於ける最も痛ましい痕跡を国民の
性情の上に印してゐるやうに思はれる。
凡そ自分の
性情にうらはらな習慣や伝統を、恰も生来の希願のように背負わなければならないのである。
なった動機は貧困のためか、彼女自身の
性情のためか、どちらか未に判然しない。
其他生理学上に於て詳に詩家の
性情を検察すれば、神経質なるところ、執着なるところ等、類同の個条蓋し数ふるに遑あらざる可し。
曰く
性情の動作にして意思——考察と共に詩術の要素を形くるもの即ち是なり。
而して
性情氣體の相反すること、亦未だ我兩人に如くものあらず。
性情と境遇の變化は「寂寥」の一篇によく現はれてはゐるが、この篇を賦するに當て島崎氏は「若菜集」の諸篇と全然趣を異にする詩の三眛境を認められたやうである。
加之先生の識見、直ちに本来の
性情より出で、夙に泰西輓近の思想を道破せるもの勘からず。