或は私の神経
過敏がさせる業だとすれば、これは即ち、悲憤の書でも反省の書でもなく、単なる自称病人の容態書きにすぎぬ。
普通われわれが俗に使つてゐる言葉でいふと神経質、あるひは神経
過敏といふものに近いものがあると思ふのです。
久々で日本の芝居を見ると云ふ興味、楽しいやうな怖ろしいやうな期待が、余程私を神経
過敏にしたでせう。
殊に、それが現実の物質的な根拠の上に立っての変化でなく、現実の掛声に
過敏になりすぎて——あるいはおびえて飛び立っているように感じられる。
『禮記』等を一讀すれば容易に了解さるる如く、彼等は古く男女の間に於ける疑を避くる爲に、吾人の想像以上に、神經
過敏なる種々の禮儀や作法を設けて居る。
象徴派の詩人を目して徒らに神經の鋭きに傲る者なりと非議する評家よ、卿等の神經こそ寧ろ
過敏の徴候を呈したらずや。
象徴派の詩人を目して徒らに神経の鋭きに傲る者なりと非議する評家よ、卿等の神経こそ寧ろ
過敏の徴候を呈したらずや。
私の如き感じ易きもの、特に病氣にて感情が
過敏になりて居るものは、此信念と云ふものがなかつたならば、非常なる煩悶苦惱を免れぬことゝ思はれる。
本來
過敏な僕の自意識が、自己表現の努力と世評に對する反應とのために、更にどれほど
過敏にされて來たか、測り知れないほどなことは、僕自身も十分之を認めてゐる。