その頃、この江戸には夜な夜な不可解なる辻斬が現れて、まるで奉行も
与力もないもののように大それた殺人をくりかえしてゆく。
薪水を積み込む御用船に乗り込んで、黒船に近づこうとしたけれども、それも毎船
与力が乗り込んで行くために、便乗する機会はなかった。
鳥羽街道は、大目付滝川播磨守が先鋒となり京町奉行の組
与力同心を引き連れていた。
町奉行所から当番の
与力や同心が東山堂へ出張って、式のごとくにおまんの死体を検視すると、かれは普通の食あたりでなく、たしかに毒薬を飲んだのであることが判った。
男の死骸は辻番から更に近所の自身番に運ばれて、町奉行所から出張した
与力同心の検視をうけた。
すなわち、南北両奉行所配下の
与力同心たちがそれぞれ手下の小者どもを引き具して、万一の場合のご警固を申しあげるという順序でした。
こととしだいによったら、
与力次席の重職にある坂上与一郎といえどもその分にはすておかぬというような力みかたで——。
——日ざしもまどろむ昼さがり、南町奉行所奥大白州では、今、
与力、同心、総立ち合いの大吟味が開かれようとしているのです。
元大坂の吟味
与力の陽明学者の大塩平八郎が飢民救済の大旆のもとに大坂城代を焼き打ちしたのはすなわちこの頃の事である。
「む」と紋十郎は突き込まれたので、思わず言葉を詰まらせたが、「南町奉行配下の
与力鹿間紋十郎と申す者、して方々のご身分は?」