まことに、野越与里、野越総江の
口論は、恰も村の往還を日日通ふ幌馬車のやうに、律儀頑固な鉄則を以て定められた晴れたる朝の合唱であつた。
ニコライ堂を背にして何遍となく警官と
口論した鮮明な思ひ出もあり、公園の中や神楽坂やお濠端等々。
蓋し大井家では春夏秋冬休むことなく
口論が行はれ高価なる掛物などが破り去られて行くけれども一枚の皿を割つたといふ話をきかぬ。
ちよつとした
口論の果が、首を切られてから歩いてみせなければならない、といふ、全くもつて馬鹿の骨頂と言はざるを得ぬ結論に到達する。
口論させたり、仲直りさせたり、そういうことが名人なのである。
伝吉の父は伝三と云い、「酒を好み、博奕を好み、喧嘩
口論を好」んだと云うから、まず一村の人々にはならずもの扱いをされていたらしい。
その為に兄は昔風の母とも何度
口論をしたかわかりません。