昔敏達天皇の御代に当って、真野の長者という金持が百済の僧蓮城を、隋の南岳恵思禅師の許から招聘して、ここに
建立したのだと云われている。
正覚寺にある政岡の墓地には、比翼塚ほどの参詣人を見ないようであるが、近年その寺内に裲襠姿の大きい銅像が
建立されて、人の注意を惹くようになった。
のぼりはた袖(相国寺塔
建立記)と言ふ語が、つゆ紐の孔を乳にした、幟旗風の物と見る事が出来れば、其傍証となる事が出来る訣である。
次いで村社三島神社境内にある立石——この立石を祀つた遺習が、今の三島神社
建立の因となつたと想像される——を見て、暫く神社の回り縁に腰して休む。
みんなで成り上ってしまって、自分勝手に躍り狂っているのでありますから、自ら開拓して芸術の殿堂を
建立しようなんてことはとても覚つかないことであります。
大丈夫の一世に立つや、必らず一の抱く所なくんばあらず、然れども抱く所のもの、必らずしも見るべきの功蹟を
建立するにはあらず。
すなわち物心という二要素が強いて生活の中に
建立されて、すべての生活が物によってのみ評定されるに至った。
論理や研究で宗教を
建立しようと思うて居る間は、此難を免れませぬ。
こはこの碑の
建立後、久しからずして地下に埋沒して、天然や人爲の損滅から保護された結果と認められ、上述の想像の蓋然性を裏書する樣である。
この寺が
建立され、その墓が出来てから以後、平家の人達は以前よりも禍いをする事が少くなった。