この四五日というものは夜半から
暁にかけてまでも活躍をつづけたので身体は綿のごとく疲れていた。
夏も過ぎようとする頃で、白夜が次第に夕方と
暁方との方へ追いやられ、真夜中の前後四時間ほどは有難い真黒な夜の幕に包まれ、人々に快い休息を与えていた。
上座は師匠の紫
暁で、次が中洲の大将、それから小川の旦那と順を追って右が殿方、左が婦人方とわかれている。
そのほかにも二、三人、そういう例があると云い伝えられて、夜は勿論、
暁方や夕方や、天気の曇った日には、みな用心して明神山へ登らない事にしていました。
芝、田町の鋳掛屋庄五郎が川崎の厄除大師へ参詣すると云って家を出たのは、元治元年三月二十一日の
暁方であった。
明治三十年三月十五日の
暁方に、吉原仲の町の引手茶屋桐半の裏手から出火して、廓内百六十戸ほどを焼いたことがある。
殊にあたりは往来のない
暁方であるから、誰かがこの美少年をさらって行ったとも思われない。
五重の塔は湿っぽい
暁の靄につつまれて、鳩の群れもまだ豆を拾いには降りて来なかった。
暁方の三時からゆるい陣痛が起り出して不安が家中に拡がったのは今から思うと七年前の事だ。