藤原の道長が
栄華の絶頂にゐた時分のこと、大和の国から御機嫌伺ひとしてみごとな瓜をささげて来た。
また
栄華物語若枝の巻、枇杷殿大饗応の条に「御霊会の細男手拭して、顔を隠したる心持ちする」とある。
前の
栄華物語を見ても、田主・翁・高足駄などが中心となつて、行事が行はれて居た。
処が、奈良宮の奈良なる字に執著してゐると思はれるのは、人麻呂勘文以下の「聖武説」、
栄華物語の「高野女帝(孝謙・称徳)説」の二つである。
二相はあたかも福原の
栄華に驕る平家の如くに咀われた。
ここはその磯節にまでも歌詞滑らかに豪勢さを謳われた、関東百三十八大名の旗頭、奥羽五十四郡をわが庭に、今ぞ
栄華威勢を世に誇る仙台伊達の青葉城下です。
昔、支那に、ある天子さまがあって、すべての国をたいらげられて、りっぱな御殿を建てて、栄誉・
栄華な日を送られました。
貴族の
栄華は、彼をして虚しき世のものをあさりめぐるの外に楽しみとてはあらずと、思はしめにき。
流石に曠世の驕児入道相国が、六十余州の春をして、六波羅の朱門に漲らしめたる、平門の
栄華も、定命の外に出づべからず。