即、その国書の中には「日出処天子、致書於日
没処天子」とあり、日本と支那とを対等の位置に置いてあったのである。
とき夜半、なお再び寝眠するに、さらに水
没の地名を呼ぶ。
神出鬼
没の雲の動作程、美と不可知の力を蔵するものは他にあるまい。
湾に沿へる拿破里の市は次第に暮色微茫の中に
没せり。
喜楽の中に人間の五情を
没了するは世俗の免かるゝ能はざるところながら、われは万木凋落の期に当りて、静かに物象を察するの快なるを撰ぶなり。
作者が霜頭翁のみを撰みて渠に配せしも、恐らくは渠をして
没恋愛修行を為さしめんとの心にてやあるべし。
ある朝浅間山の噴火の記事を探していて、山中陣
没の記事にぶちあたつた、腹立たしいほどのあつけなさ。
そして翌明治三十七年以降は大正三年の病
没の年に至るまで、そこの世界屈指の美術博物館に、日本およびシナの部の首脳として、毎年の半ばをかの地に過ごすに至った。