甕は焼物であるから、湯があまりに沸き過ぎた時、迂濶にその縁などに手足を触れると、火傷をしそうな熱さで思わず飛びあがることもあった。
それも、「独酌する毎に輒、一
甕を尽す」と云ふのだから、人並をはづれた酒量である。
それより以前にも、垂仁紀を見ると、八十七年、丹波の国の
甕襲と云う人の犬が、貉を噛み食したら、腹の中に八尺瓊曲玉があったと書いてある。
しかし酒がまはり出すと、彼の所望する通り、
甕の底を打ち鳴らして、高天原の国の歌を唱つた。
かの哀情深くはぐまれて、「郭公の賦」、「破
甕の賦」、「夕暮海辺に立ちて」、「暗夜樹蔭に立ちて」、「夕の歌」等の秀什は成りぬとおぼゆ。
西洋から帰って仏学塾を開き子弟を教授して居た後までも、更に松岡
甕谷先生の門に入って漢文を作ることを学んで怠らなかったのである。
亮るい月は日の出前に落ちて、寝静まった街の上に藍
甕のような空が残った。
老酒を
甕の中から汲み出すのを見て、徳利の底に水が残っていやしないか否かを見て、徳利を熱湯の中に入れるところまで見届けて、そこでようやく安心する。