そこでヘンリー四世は一〇七六年も将に暮れようとする頃
皇后と皇子と他に従者一人をつれて本国を発し、罪を謝すべくイタリヤに向かって旅立った。
斉明は皇極の重祚であり、天智の生母、舒明の
皇后であり、孝徳はその弟、天智の叔父に当る。
英帝
皇后ご同列の米大州ご訪問や、アラビアオーマン国の王子ご新婚などに併せ……ともあれ、スペースを食った大物記事の一つ。
正しい意味における后は、元、他氏の出であつて、其上に、一段尊い王氏の
皇后があつたことの回顧が、必要である。
神代紀のこのはなさくやひめの命、垂仁紀の狭穂姫
皇后の産事は、それ/″\火の形式によるものであり、いま一つの水の形式になると、後世の御産の典型的になつてゐる。
嫉み深い
皇后すら、其を拒めなかつたと言ふ風な伝へは、根強い民間伝承を根としてゐるのである。
其の黒く塗られた板塀について曲るとだらだら坂になり、丘の上のメリー
皇后の慈善産院の門前へ出た。
皇女である方が、
皇后・中宮になられた場合、女源氏と称する訣もこれで訣るのだ。
即ち前説に拠れば舒明の皇女、後説に拠れば舒明の
皇后ということになる。