火つきのいゝきり炭のやうな、前者の
作風に反して、改造十二月號葉山嘉樹の『プロレタリヤの乳』は凡そ濕つた薪にも似てゐる。
その僕からかの平明な坦懷な淺見君の
作風に接するとき、僕に起る氣持が、心憎さと同時にある種の齒痒ゆさであることは、淺見君にも了解して貰へることだらうと思ふ。
山部赤人の作物の中、晩年の
作風らしいものゝ一群には、あまりに文学意識が露出し過ぎて居るものがある。
ある人は彼の
作風をアナトオル・フランスに比したやうだが、これは違ふ。
此の問に答へる為めには、先づ、日本現代劇——さう名づけらるべき個々の作品並にその作家の傾向、
作風等に対し、一通りの研究ができてゐなければならない。
その作品というのは、当時、自由華やかな時代の
作風で、とても今の時局には読み難いものなのでした。
僕には
作風をかえる上からも「私」が必要だったのです。
どの道、私の
作風は、いずれ私の個性によって、私だけのものですから、こんな表現による
作風は、私だけで終わるかも知れません。
此側の
作風には、失禮かも知れぬが、どうも、新感覺派に、宇野浩二流の文脈が這入つてゐる樣に思ふ。