学校の
国語や漢文は文字を解釈するところで、鑑賞したり、思想を読むといふことが忘れられてゐる。
その頃私は、ずっと北の国の或る町の——仮にH市と呼んでおこう——そのH市の県立女学校で、平凡な
国語の教師を勤めていた。
新制私立大学の
国語国文教師としてのこの薀蓄は、必ずしも、彼を学界に押し出すことに役立たず、また、ジャアナリズムに迎へられる契機ともならなかつた。
学校で
国語は習つたが日本語は習はなかつたといふものがあれば、誰でもなるほどさうかとすぐその意味がわかるくらゐである。
文学者は、かういふ風にして、
国語の使用権を狭められてゐるのみならず、言葉を毛嫌ひすることによつて、実体を疎んずる結果を招いてゐることさへある。
平明に哲学することのできぬ
国語での、半分づつわかりあつた論戦にはお互にもう倦きてもいゝ頃ではないか。
『フランスの国民くらゐ
国語を大切に取扱ふ国民はない。
またたとえ語源を同じくするものでも、一
国語として成立する場合には、その意味内容に相違を生じてくる。