「※部」の語が「間人」の語と通じて用いられた事は、同じ皇女の御事を同
書用明天皇元年の条及び推古天皇元年の条に、ともに穴穂部間人皇女とあるによって察せられる。
こう言う僕の枕もとにはいつも読
書用の電燈だのアダリン錠の罎だのが並んでいる。
保吉はきのうずる休みをしたため、本多少佐の頓死を伝えた通告
書を見ずにしまったのである。
夏目先生は
書の幅を見ると、独り語のように「旭窓だね」と云った。
そこで彼は敵打の一行が熊本の城下を離れた夜、とうとう一封の
書を家に遺して、彼等の後を慕うべく、双親にも告げず家出をした。
書紀によると、日本では、推古天皇の三十五年春二月、陸奥で始めて、貉が人に化けた。
軍需成金共が跋扈してゐて、一人静かに
書を読まうとか、傷ついた心身を休めようとか、さういふやうなものは問題ではないのだ。
然らずんば、予が一生の汚辱を披瀝せんとする此遺
書の如きも、結局無用の故紙たると何の選ぶ所か是あらん。
但、万一記し洩れも有之候節は、後日再応
書面を以て言上仕る可く、先は私覚え
書斯くの如くに御座候。