しかしまた一方には、五代乱離といえどもみな国史ありといわれていまして、皆それぞれの国史を残している位ですから、
文章まったく地に墜ちたというのではありません。
しかし弔辞の処女作には多少の興味を持っていたから、「悠々たるかな、白雲」などと唐宋八家文じみた
文章を草した。
自分が志賀氏に対する尊敬や、好愛は殆ど絶対的なもので従って自分はこの
文章においても志賀氏の作品を批評する積りはないのである。
と、書出しの九行が書かれているだけで、あと続けられずに放ってあるのは、その
文章に「の」という助辞の多すぎるのが気になっているだけではなかった。
そこには、墨くろぐろと、次のような
文章が返り点のついていない漢文で認めてあった。
唯、その
文章の調子に至つては、殆原文の調子をそつくりその儘、ひき写したと云つても差支へない。
——僕の書いた
文章はたとひ僕が生まれなかつたにしても、誰かきつと書いたに違ひない。
蔵沢の墨竹が黄興の「
文章千古事」と挨拶をしてゐる事もある。
が、それにもかかわらず、あの「わが袖の記」の
文章の中にはどこか樗牛という人間を彷彿させるものがあった。