早くとも、平安に入って数十年後に、
書き物の形をとり、正確には、百数十年たってはじめて公式に記録せられたはずの寿詞であったことが、注意せられていなかった。
今日になってみれば頗る貴重な
書き物が維新当時にみんな反古にされてしまったからね。
早くとも、平安に入つて数十年後に、
書き物の形をとり、正確には、百数十年たつてはじめて公式に記録せられたはずの寿詞であつたことが、注意せられてゐなかつた。
倖にも、其前年六月に、山籠りした世阿弥の弟子の禅竹は、ゆくりなくも命婦ら一部の、漂浪の痕を辿るべき
書き物(禅竹文正応仁記)を残して置いてくれた。
又昔の祝詞は、今の様に、
書き物に書いて読むのでは無く、口伝へであつた故、保存せられないで、云ふ人の気持ちで変つたり、毀れたりしても滅びたのである。
國木田氏の
書き物に執した人々の間には、「忘れ得ぬ人々」と言ふ短篇が、よく話題になる。
「なにしろ幕府の秘密主義で、見す見す世間に知れていることでも、成るべく伏せて置くという習慣がありましたから、表向きの
書き物には残っていないのかも知れませんな。
大阪の旧地誌は固より、京都側の
書き物にも、其通りに伝へて居るのが段々ある。
「
書き物をなさるなら、ここはごた/\してゐまして、お困りでしようから、あすから本館の離れの二階へ御案内致しましようか」と云つた。