兄はその頃、
詩歌小説にふけりすぎて神経衰弱になつた結果、或友人の深切に誘はれて、キリスト教信者となりかけて居ました。
この文を草した後、山崎楽堂氏の「俳句格調の本義」(
詩歌時代所載)を読み、恩を受けたことも少くない。
且又茂吉は
詩歌に対する眼をあけてくれたばかりではない。
呉先生の欧洲留学に出掛けられたときの諸名家の送別の
詩歌帖を私は一度先生の御宅で拝見した。
もともと狂言綺語即ち
詩歌を讃仏乗の縁として認めるとした白楽天のような思想は保胤の是としたところであったには疑無い。
も一つ又八景については、徳川期最初の大儒の惺窩先生がその市原山莊に八景を擇んで人々の
詩歌を得たことがある。
彼等は、管絃を奏づる公子を見、
詩歌を弄べる王孫を見、長紳を※ける月卿を見、大冠を頂ける雲客を見たり。
小説も募集されてゐるし
詩歌はもとより評論、隨筆すべて文學に關して深切な指導をしてゐた明るい快い文學的の雜誌であつた。
朝より暮に至るまで、紙に臨み筆を執つたからとて、字や句の百千萬をば連ね得はするだらうが、それで
詩歌の逸品は出來ぬ。
シナにおいては八世紀に高雅な遊びの一つとして
詩歌の域に達した。