けれども多くの
詩篇は、あまり表現の手馴れた、日本的のものになりすぎてゐて、どうかすると、平明な抒情詩ででもある様に見えたのであつた。
けれども多くの
詩篇は、あまり表現の手馴れた、日本的のものになりすぎていて、どうかすると、平明な抒情詩ででもある様に見えたのであった。
だが要するに、色々な放浪味のある旅に寄せた散文
詩篇数種を集めたものである。
支那の酔人は「離騒」を読んで興ずると云ふが、「離騒」にあらずとも
詩篇は概ね酔後の好侶伴である。
旧約
詩篇に、『なんぢの雷鳴のこゑ』、『ヱホバは天に雷鳴をとどろかせたまへり』とあつたり、フアウストに、『日は合唱の音を立ててゐる。
ダンテはその一世一代の
詩篇に標するにデイヴイナ・コメデイア(神聖喜曲)といふ題を置いた。
観音経は実に絶唱す可き雄大なる一大
詩篇であると思ひ信じて居ります。
小山内先生は、大学の卒業論文が英国の
詩篇の研究であったばかりでなく、文壇へのデビユも「小野のわかれ」「夢見草」に収録された詩作であった。