土俗学者は我が国民の古今の風俗・習慣を調査して、種々異りたる系統の
遺風の、今なお存在するの事実を認めている。
江戸末期から若い女を置くようになって、その
遺風は東京に及び、明治の初年には大抵の湯屋に二階があって、男湯の入口から昇降が出来るようになっていた。
鵜殿が素早く連れてきた九州男児は故郷の
遺風のやうに男色であつた。
此は、三日には女が海辺へ出かけて、病気払ひの祓除をした
遺風が底に流れてゐるらしい。
だが極めて厳格に凝視すると、祖先が野にあった頃の
遺風が僅かに痕跡をとどめていないでもない。
維新前江戸、諸大名の御用商人であつた私の實家は、維新後東京近郊の地主と變つたのちまでも、まへの
遺風を墨守して居る部分があつた。
愛山生が徳川時代の文豪の
遺風を襲ひて、「史論」と名くる鉄槌を揮ふことになりたるも、其の一現象と見るべし。
詳に云へば、唯彼等が、東夷西戎の
遺風を存せしを以て也。
毎年この六月に、弘法大師降誕會が主催となり、東西の碩學を聘して講演會を開き、大師の
遺風餘徳を偲ぶといふことは、極めて結構な企と思ふ。