単なる
外形的解放は近代の婦人を人工的の者と化し去つた。
犬と同じように
外形の貧相な人間を警戒、軽蔑するのである。
外形的に西洋かぶれをすることも自然の流れであつてみればやがてそこにも日本精神の必然的な自律性が加はるだらう。
そしてこの種の何も知らない娘に限つて
外形的に大無軌道をやらかすのではないかと考へる。
それは太平の人柄が
外形的よりも精神的に化粧を施されてゐないことに非難と皮肉を浴びせたものだ。
桃山城で苛々してゐる秀吉と、アパートの一室で朦朧としてゐる私とその精神の高低安危にさしたる相違はないので、
外形がいくらか違ふといふだけだ。
「かたち」は単に
外形を指すばかりでなく、その「内容」をも指すとすれば、その種類はどれだけあるか、大きな分類を行うことすら困難である。
かの家は依然としてその
外形になんの変化もなく、いろいろの空想は自然に私の頭の中から消えてしまった。
もし
外形の生命を把り来つて観ずれば、地球広しと雖、五尺の躰躯大なりと雖、何すれぞ沙翁をして「天と地との間を蠕ひまはる我は果していかなるものぞ」と大喝せしめむ。
『萬葉集に取るべき點はその精神であつて、その
外形ではない』こんな事をいふ。