一座の
長老勝家、先ず口を開いて、織田家の御世嗣には御利発の三七信孝殿を取立参らせるに如くはない、と云った。
その上彼等が尊敬し来った
長老達が、四郎を礼拝する有様を見ては、驚異の念は次第に絶大の尊崇に変った。
——云う迄もなく梨園にはなお菊五郎、吉右衛門もいますし、幸四郎の
長老も矍鑠としています。
それからその後慶長元和の頃、京の圓光寺の
長老がゆゑあつて近江蟄居の時、琵琶湖付近の景を瀟湘八景に擬して當時の人々から詩歌などを得た。
或日編輯室で忙がしく筆を運ばせて居ると、社の
長老の野村さんが、『田中君が一寸お目に掛りたいと言つて居ますが』、と、例の丁重な調子で言はれた。
私の祖先の知恵ある
長老たちも昔から自分らのことをモータルと呼んでいますから。