その演劇学校は、俳優のみならず、演劇に関する諸種の
部門を専門的に研究しようとする人々のために開放されるであらう。
さて、文学は文学として、演劇の
部門であるが、当時の進歩的頭脳が、必ずしも舞台の近代化、劇場文化の向上を計らうと企てなかつたわけではない。
今日かゝる唾棄すべき風習が少しでもわれ/\の眼に映るとすれば、この「思想的堕落」に挑戦する唯一の文化
部門は、実に、正統的な新劇と、純文学に外ならぬのである。
即ち、演劇に関する他の
部門は兎も角、演技の実際的指導を如何にしたかといふ点で、少くとも、今日われわれに大きな疑ひを抱かしめる。
あらゆる芸術の
部門を通じて演劇の理論といふものは、特にこれを実際に「試み」る機会が少く、従つて、その理論に確乎たる根柢を築くのに容易でない事情にある。
これはわれわれ日本人の文化的教養が、その質と範囲に於いて、各種の社会
部門を通じ、極端に分裂し、対立し、食ひ違つてゐるからだと思ふ。
あらゆる文化の先駆的傾向は、その水準の上にはじめて活溌な動きを見せるものであることは、例を何れの
部門に取つても云へることである。
これに反して、文学の他の
部門、殊に戯曲に至つては(詩の方面は暫く問題外とする)外国劇の影響から殆ど本質的な何物をも摂取することができなかつた。
我々がもしも映画の綜合するあらゆる
部門にわたつて準専門家なみの研鑚を積まなければならぬとしたら、少なく見積つても修業期間に二百年位はかかるのである。
ことに、その最高の
部門であって、ただ逆行的なやり方をするというだけで、不当にも、とくに解析学と呼ばれているものによってだ。