その以来、わたしに取っては地
震というものが、一層おそろしくなった。
大阪では地
震と共に、小さな海嘯があつて、木津川口の泊り船は半里以上も、狭い水路を上手へ、難波村深里の加賀の屋敷前まで、押し流されて来た時の話である。
何故かと云うと、この二三年、京都には、地
震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災がつづいて起った。
内供は、
震旦の話の序に蜀漢の劉玄徳の耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。
加ふるに山はくづれ、崖はなだれ、海嘯は起り、暴風雨は襲ひ、物資の窮乏、流言蜚語、それ等は絶えざる余
震とともに災害のあるかぎりを以て生き残りの人人を試した。
何故かと云ふと、この二三年、京都には、地
震とか辻風とか火事とか饑饉とか云ふ災がつゞいて起つた。
だから吉田の頭には地
震とか火事とか一生に一度遭うか二度遭うかというようなものまでが真剣に写っているのだった。
東京では今度大地
震と大火事がありましてたくさんのひとが死にました。
ピストルやナイフを用ふる死は僕の手の
震へる為に失敗する可能性を持つてゐる。
その程度も安政、大正の大
震と同等若しくはそれ以上のものも少くなかつたらう。