西暦が百年周期で、世の移り変りを
観じているように、昔の日本は干支の六十年周期で世の推移を
観じていたのかも知れない。
時に古今の差なく、国に東西の別はない、
観じ来れば、人間は始終同じ事を繰り返して居るばかりだ。
近代に於て、巫女を拝する琉球の風習は、神々のものと考へたからでもなく、巫女に附著した神霊を拝むものでもなく、巫女を媒介として神を
観じて居るものゝやうである。
其神の常在る国を、大空に
観じては高天原原」は罫囲み]と言ひ、海のあなたと考へる村人は、常世の国と名づけて居た。
だが、尚「客人観念」の中に、俤も見えなくなつた饗宴に、少々は一等古い——神をまれびとと
観じた——時代のなごりを留めてゐる。
九月一日、館主と共に近き海岸に到りて鰮魚を漁する態を
観る。
僕は勿論カルメンに扮するイイナを
観ることを楽しみにしていた、が、第一幕が上ったのを見ると、カルメンに扮したのはイイナではない。
ところが潤州へ来て
観ると、楽みにしていた張氏の家というのは、なるほど構えは広そうですが、いかにも荒れ果てているのです。
日本文学史を
観じ来れば恋愛に対する理想、余をして痛歎せしむるもの多し。
又金子を沢山懐中に入れて芝居を観ようと思って行っても、爪も立たないほどの大入で、這入り所がなければ
観る事は出来ませぬ。