震前の一般社会の一切の事象を
観るに、実に欠けてゐたものは、恐懼修省の工夫であつた。
九月一日、館主と共に近き海岸に到りて鰮魚を漁する態を
観る。
支那の古い人でさへ其通りです、今の人が何で理を
観ること古の人に及ばぬやうな下らぬ考を持つて居られませうや。
或る種類の芸術家には、人生の事象に対するとき、善悪を超越して、ただ事実を事実として
観るといふ人がある。
僕は勿論カルメンに扮するイイナを
観ることを楽しみにしていた、が、第一幕が上ったのを見ると、カルメンに扮したのはイイナではない。
兎も角も、人物画といふものは、描く人にとつても、またその画を
観る人にとつても、ともに最も深い芸術的感興の対象であり得るといふ事は大体に於て云ひ得る。
ところが潤州へ来て
観ると、楽みにしていた張氏の家というのは、なるほど構えは広そうですが、いかにも荒れ果てているのです。
又金子を沢山懐中に入れて芝居を観ようと思って行っても、爪も立たないほどの大入で、這入り所がなければ
観る事は出来ませぬ。
名ある山々をも眼の前脚の下に見るほどの山に在りて、夏の日の夕など、風少しある時、谿に望みて遠近の雲の往来を
観る、いと興あり。
マラルメ、ヴェルレエヌの名家これに
観る処ありて、清新の機運を促成し、終に象徴を唱へ、自由詩形を説けり。