袴垂れの徒党は、討伐の
軍勢を蹴散らかすほど強力であったばかりでなく、狼藉の手口は残忍を極め、微塵も雅風なく、また感傷のあともなかった。
三十日は、昨日の大雨の名残りで、
軍勢の足場を得かねた。
四月三十日の未の刻、彼等の
軍勢を打ち破った浅野但馬守長晟は大御所徳川家康に戦いの勝利を報じた上、直之の首を献上した。
だが此時毛利は芸州吉田を領し、其所領は、芸州半国にも足らず、其の
軍勢は三千五、六百の小勢であった。
織田徳川の
軍勢、設楽の高原に着くや、信長(此時四十二歳)自らは柴田勝家を従えて、設楽村極楽寺山に本陣を据えた。
初めから足りない様な汁のかけ方をするような不心得では、
軍勢の見積りなど出来るか。
その証拠には、これだけの
軍勢で、必ず漢の軍を三度破って見せる』と云ったそうです。
ですから田村麻呂の
軍勢も、勇気は少しも衰えませんが、さしつめさしつめ矢を射るうちに敵の数はいよいよふえるばかりで、矢種の方がとうに尽きてきました。
源太はいつたんは失望したが、しかし生食が出てこぬかぎり、味方の
軍勢の中に磨墨以上の名馬はいないので、その点では彼は得意であつた。
かくのごとく※悍無類の批評家の
軍勢が一作いずるとみるやたちまち空をおおうて群りくるありさまはものすごいばかりである。